あなた色に染まる。
6月も終わりに近付いた日曜日の夕方。
俄にかき曇った梅雨空が今にも一雨来そうな気配である。
先日29歳の誕生日を迎えたばかりの隼人は、タクシーを降り、
足早に表通りから路地に入り、勝手知った様子で、
小さいけれど、よく手入れが行き届いた庭に通じる
裏の門を開けて中に入って行った。
勿論、この家の主、往年の大女優Xは隼人の訪問を知っている。
大女優X……日本映画の全盛期を支えた国民的女優。
名だたる監督の作品に出演し、いまだに衰えを見せない美貌は、
映画界の七不思議と言われている。
映画の衰退、時代の流れと共に、活躍の場は舞台に移り、
絶大な人気で年間に2〜3本の主演の舞台をこなしている。
今日は、このところズッと可愛がっている隼人に迎えに来て貰って、
昔の映画仲間の女優が出ている舞台を観に行く約束になっているのだ。
陽射しは弱くなったもののムッとする草いきれの中、
隼人はそこここに咲いている可憐な草花を眺めながら玄関へ急いだ。
しかし、あれだけ忙しいのに、何時、手入れしているのだろう……。
チューリップはチューリップ、薔薇は薔薇、向日葵は向日葵、
それぞれに種類があることなんか全く頓着なし、草花に全く興味のない隼人は、
チョッと不思議に思うと同時に、Xのマメさに驚くのであった。
玄関のチャイムは鳴らさず家の中へ……。
Xに伝えてあった時間より30分早い到着だけれど、
それはXも十分承知、隼人はXが身支度をするのを見るのが大好きだ。
どうやらXもそれを望んでいる節がある。
化粧を施し身支度するところを隼人に見られるのが好きなのだ。
隼人は奥の小部屋、Xのドッレシング・ルームをノックする。
小さな部屋には必要な化粧道具以外は何も置かれていない。
正面に大きな鏡とグルリと取り囲むライト……まるで劇場の楽屋みたいだ。
隼人が入って来たドアの横の壁には藤田嗣治の薔薇の油絵が掛けられている。
小部屋の右には着物だけのウォークイン・クローゼット。
左には洋服や靴、バッグや装飾品が一式入った大きなウォ−クイン・クローゼット。
「開いているわ、お入りなさいな。」
Xの華やかな声が聞こえて来た。
「こんにちは。勝手にお邪魔しています。」
隼人は帽子を取り、目でXに挨拶をした。
Xは大きな鏡越しにチラリと隼人を眺めながら声に出さず頷いた。
目はしっかりと、先日、Xが隼人にプレゼントしたパナマ帽を見ている。
「似合うわね。」と、一言。
Xは今、入念に化粧をしている最中なのだ。
その出で立ちと言えば、素肌の上に純白のガウンを羽織っただけのようだ。
髪には幾本ものホットカーラーが巻き付けられている。
入念にファンデーションを塗り終わったXは、
机の引き出しから蓋付きの染め付けの小皿を取り出した。
面相筆を皿の中の「墨」を浸して、先ずは右の目の上に一筆で一気にラインを引く。
そう、Xは市販のリキッド・アイライナーは絶対に使わない。
隼人にも絶対に教えてくれない秘密の「墨」を使ってアイラインを引く。
目頭は少し鼻梁に近い所から実際の目よりも長めに、
その描き出しは、書道の「一」の書き初めのように、
先がチョッと太くアクセントがついている。
スッと筆を入れたかと思うと一気に目尻に……。
一筆の中で線の太さを自在に変え、目尻に向かって段々太く、
最後はスッと筆を跳ね上げキリリとした切れ長の目の出来上がりだ。
いやぁ、本当に上手い……今度は反対の左目。今度は手を交差させ、
こちらも同様に一筆で一気にアイラインを引いてしまう。
鏡越しにチラリと隼人の方を見て、
「どう?上手いでしょう?もう何十年もやっているから……。」
言い終わらないうちにXは鏡の中の世界に戻って行った。
今度は下のアイ・ラインとマスカラに取りかかる。
上の睫毛はマスカラを使うXだが、下の睫毛には、
先程の面相筆でチョンチョンと必要な部分にだけ「墨」を置いて行く。
そして目尻だけは少しだけラインを入れるのだ。
マスカラも必要以上には絶対に付けない。
目力とはアイラインやマスカラの濃さではなく瞳の持つ力だと信じているから。
Xは普段、付け睫毛を絶対に付けない。あれは舞台の上のもの、
玄人……所謂、プロフェッショナルの人が付けるもの、
普段、街中で素人が付けるものではない……そう決めているようだ。
今時の女学生が付け睫毛……あんなに汚らしいモノは無い。
次に眉を描くX。これまた芸術の域に達したペンシルさばきで一気に優美な眉を描く。
おそらくヴィヴィアン・リーを意識しているのだと隼人は勝手に勘ぐっているのだが、
Xは「グリア・ガースンよ!」と言い張ってきかない。
左右の弧が微妙に違う眉毛はXの顔に絶妙なニュアンスを与えている。
「隼人くん、そのスーツはどうしたの?麻ね、それ?」
フト鏡の中からこちらの世界に戻って来たXが尋ねた。
「そう、麻です。何年前かなぁ……随分前に買ったんですよ。
誕生日のプレゼントに貰った帽子に合うかなって思って……。」
Xは先程、隼人が脱いだパナマ帽にチラリと目をやり小さく頷いた。
「フフ、可愛い嘘……。」
Xは心の中で独りごちた。
隼人はXがプレゼントした帽子に合わせてスーツを新調したのだ。
だって、数年前にはあんなにウエストを絞ったシルエットじゃなかったもの。
マーガレット・ミッチェルの「風と共に去りぬ」の続編「スカーレット」。
著者のアレクサンドラ・リプリーによると、
この世の中で麻のスーツを皺にならずに着こなせるのは、
レット・バトラーだけなのだそうだけど、
隼人の麻のスーツにはまだ殆ど皺が寄っていない。
Xは隼人のこう言う所が好きなのだ。本当に可愛いと思う。
部屋の中はキンキンにクーラーが効いている。
こうして部屋の中を冷やして汗を引っ込ませて一気に身支度し、
外出先では涼しい顔で汗を掻かない……Xのやり方なのだ。
「いいわね、隼人くんは汗掻かなくて……。」
顔が出来ると今度は髪の毛に取りかかるX。
ホットカーラーを一つずつ外して行く手付きは慣れたものだ。
「Fが好きなのよねぇ……この髪型。」
Xは隼人の視線に気付くとポツリとそう言った。
Xには長年付き合っているFと言う恋人がいる。
恋人と言うよりもニュアンスは愛人……。
勿論、Xのスポンサーで妻帯者なのだけれど……。
背中の真ん中まで届こうかと言うロング・ヘアーを、
一旦クルクルにしてドライヤーで冷風をあてながら丁寧にブラッシング。
流れるような大きなウェーブのヘアスタイルが完成する。
「隼人くんも髪の毛切ったのね。」
「ハイ、短い方が帽子に似合うと思って……。」
一瞬、嬉しそうに目を輝かせ鏡の中のXが微笑む。
「さっ!」
その一言で隼人は部屋の外に一旦出る。
Xがメイクをするのを見るのは好きだけれど着替えの時は別、
Xもメイクするのを見られるのは全然気にしないけれど、
矢張り、着替えは密やかにしたいのだと思う。
「カチャッ!」
リビングで待つことほんの数分。扉が開いてXが出て来た。
Xの今日の衣装は夏らしいオフ・ホワイトの麻のワンピース。
手には大きめのサングラスと、20年来使っているお気に入りの、
シャネルのチョコレート色のクロコダイルのバッグ……。
隼人は知っている。
Xが隼人の今日の出で立ちに合わせて咄嗟に着て行く服を変えたのを……。
だって、ドレッサーの横にはシルクのウォーターメロン色の、
パンツ・スーツがハンガーにかけられてあったハズだからだ。
必ずXはこう言うことをする。隼人に合わせて自分の装いを変えるのだ。
でも決して、事前に隼人に何を着て来るかを尋ねはしない。
その場で自分をアレンジするのが楽しいようだ。
「さっ、行きましょう。早くしないと開演に間に合わないわ。
スグにタクシーが拾えるといいのだけれど……出来ればチョッと一杯、
始まる前に冷たいシャンパンでもでも飲みたいじゃない……。」
もう片方の手にしていたパナマ帽を、
隼人の胸に押し付けるようにして手渡すと、
「夕食にはFも来るけど隼人くんは黙っていればいいから……。」
そう言うとウィンク一つ、
屈んでフェラガモのチョコレート色のサンダルに足を通す……足が小さいのだ。
隼人が扉を開け、まさに外に出ようとする瞬間、
Xは玄関先に掛けてあったエルメスのサンド・ベージュの大判の
薄手のスカーフをさらりと無造作に腰に巻き付けた……。
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ブラッド・ピットは付き合う女性の髪の色に合わせて、
自分も同じ色の髪を染めると言われています。
好きになった人、付き合う相手、結婚したパートナー……。
皆さんは自分を無意識の内に変身させていませんか?
そしてまた、相手を無理矢理、自分色に染めていませんか?
心地よく相手色に染まっていますか?それとも無理していますか?
はぁ……文才があったらなぁ。
お気に入りの俳優くんたちや麻実れいさんにあてて戯曲を書くのに……。
まぁ、無いものは仕方ない(笑)……と、言う訳で、
今、流行のブノワ。さんの電子書籍です(笑)
草々
2010年7月8日
ブノワ。
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